本郷界隈に残る明治・大正期の文豪のまち歴史的建築物を巡る/東京・文京区(Part2)

【日時】平成28年・5月11日(水)
東京・文京区本郷から根津、湯島、台東区池之端を散策し明治・大正・昭和初期の歴史的建造物を巡るPart2・3は、上屋敷前田家跡に建てられた「東京大学」と明治維新の激動期に建てられた「旧・岩崎邸」を中心に行った。(旧・岩崎邸は次回掲載) 「建築」はその時代の歴史・文化を今に伝える生き証人といえるだろう。まずは上野駅より池之端の西側を歩き「無縁坂」を上り「旧・岩崎邸」を左に見ながら坂の上に到着する。坂の上の右手に「東京大学・鉄門」がある。岩崎邸は台東区・池之端だが、東大に入るともう文京区本郷7丁目となる。わたしの中学時代は、岩崎邸の西側にある湯島天神の間の大きな坂「切通し坂」を上り元富士警察を右折したところにあった文京第4中学校で過ごした。この4中に隣接する大きな「竜岡門」からも東京大学には入れる。今回は岩崎邸から至近の「鉄門」から東京大学に入る。医学部の研究室や資料館を通り抜け東大病院のわきに出て、まずはそこから「本郷3丁目」となる北側に一気に向かう。東京大学と言えば、まずはこの赤門(あかもん)だろう。東大キャンパスの中でも最も古い歴史を持つここから視察がスタートした。「赤門」はキャンパス南西部にあり、本郷通りに面している。同キャンパスの正門とよく間違われるが、正門ではない。旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門であり、1827年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女溶姫を迎える際に造られた。建築様式としては薬医門であり、切妻造となっている。屋根の串瓦をよく見ると「天皇家」の紋章の下位に「前田家」の紋章が確認できる。左右には唐破風造の番所を置いている。「赤門」は国の重要文化財、旧国宝であるが、国重要文化財とは、国宝と同格である。さて、早速、東大建築視察のレポートに入ろう。東京大学の本校は文京区本郷地区の「本郷・弥生・浅野キャンパス」がある。その中でも本郷キャンパスには歴史のある建物が多く、東京都の登録有形文化財第1号である安田講堂をはじめ、正門(横にある門衛所も含む)、法文1号館、法文2号館、法学部3号館、工学部列品館、工学部1号館が登録有形文化財に登録されている。これらの建物のうち、正門以外は内田祥三の設計による建築である。これらは共通する特徴をもったゴシック様式の建物であるため、設計者の名前を取って内田ゴシックと呼ばれている。内田祥三は、1885年、東京深川に生まれた。1904年、東京帝国大学工科大学建築学科入学。在学中に東京駅周辺の三菱ビジネス街で建築実習を受けている。1910年 東京帝国大学大学院に進む。ここで東京大学教授、佐野利器のもとでコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究した。この佐野利器こそが、日本の建築を「機能・性能主義」へと大転換させた張本人と言える。建築には3つの効用「デザイン・機能・性能」があり、現在の建築にかかわる日本人に、「この3つの中でどれが一番重要ですか?」と聞くとほとんどの建築関係者は「機能・性能」と間違いなく答える。この考え方は現在の日本の建築学問が、工学部建築学科であり、内容そのものが「エンジニアリング」の扱いであるからにほかならない。その背景には、関東大震災による建物倒壊があり、日本の最高学位、東京大学の佐野利器以降にそうなってしまった歴史がある。しかし、現在でも欧米の建築は工学部エンジニアリングではなく、人文科学に属するヒューマニティーズの学問領域だ。その違いは関東大震災以降の日本の耐震技術などのエンジニアリング台頭とそれを主導した佐野利器により決定的な違いを生じさせた。しかし、佐野利器それ以前の日本の近代建築は、この人文科学の学問として扱われ、日本の近代化は国家を上げて「ルネッサンス建築」による欧米の建築様式主義(デザイン、意匠)が中心であった。関東大震災を機に、それではダメだと唱えた佐野利器と大論争が展開され、最終的には、日本の建築は、歴史文化を学ぶ人文科学分野であるヒューマニティーズから、構造力学的なエンジニアリングの学問分野で扱かわれるになる。これが、現在まで続く、工学部建築学科の基本分野である耐震性を含む構造力学中心の工学系エンジニアリングへの路へと舵を切った瞬間であった。次回のPart3のレポートでも書く、英国人でルネッサンス建築を日本にもたらしたジョサイアコンドルの近代化を目指した明治の時代は間違いなく歴史文化を表すデザイン重視の建築学(英国)から、より日本の官僚主義の考え方と体質に合う封建的なドイツの建築へと変貌していく。この東京大学の建築学科の教授陣も英国人からベックマンの招請によりドイツへと一気に入れ替わっている。これは現在の日本の建築界の中で「ドイツ派」と呼ばれる建築家がこぞって「パッシブ」などと言いながら実に工学的なエンジニアリング好きの心をとらえていることにも影響している。つまり、日本の建築は歴史文化(デザイン)よりも機能・性能主義が中心の工学的なエンジニアリング出身者しかいなくなったということにつながっている。しかし、現在でも欧米の建築学は人文科学ヒューマニティーズの分野として建築の歴史文化デザインを徹底的に学ぶ。これが日本の建築が工学系の学問エンジニアリングであるのと大きく違う点である。しかし。東大構内の建築物を巡ってみると内田祥三の「内田ゴシック」にはまだまだ歴史文化にもとづいた建築様式が守られている。ところが、本郷キャンパスの北側には、歴史文化を感じさせない「機能主義」が台頭したことを発見した。それが、「内田ゴシック」と真正面から対立するような破壊的で機能主義の「安藤忠雄建築」である。その対比の無機質な「コンクリート造ガラス建築」を東大本郷キャンパス内で見ることが出来る。向かい側は歴史文化を感ずる「煉瓦造の内田ゴシック」である。現在、私たちが目にする東大建築は、その代名詞である「内田ゴシック」であるが、その前の時代の「ジョサイア・コンドル」の存在がいかに大きなものであったか…。明治時代の旧帝国大学において、当時の日本政府の働きかけにより英国から召集された「日本の近代建築の師・ジョサイア・コンドル」の存在である。ジョサイア・コンドルは、1852年にイギリス・ロンドンに住む銀行員の子として誕生。父の死後、建築家を志す。ロンドン大学などで建築学を学んだのち、1876年にイギリスの名建築家に因んだソーン賞を受賞した。この賞を受賞することは一流建築家の仲間入りを意味し、23歳のコンドルは英国の期待の新人と言われた。しかしこの年のうちに明治政府の要請を受けて日本行きを決定し明治10年(1877)に来日しました。コンドルの来日と同時に日本の建築学は始まり、工部大学校造家科(のちの東大工学部建築学科)で教鞭を執り、造家学科の第一期生であった辰野金吾らをコンドルは一流の建築家へと育て上げた。明治期の名建築の多くはこの第一期生4名とコンドルによって作られた。日本では工部大学校(現在の東大工学部建築学科)などで教鞭を執った後に建築事務所を開いて数多くの建築を手がけた。手がけた作品の多くは解体、関東大震災や太平洋戦争の空襲などによる損壊で失われたが、1891年竣工のニコライ堂や、三菱の3代目岩崎久弥本邸など、また近年復元された東京駅周辺の三菱一号館日本の重要文化財になっている建築物を数多く手がけた。有名な鹿鳴館(1940年に解体)も代表的な作品だ。この東京大学の弟子たちの作品には東京駅や日本銀行(辰野金吾)、迎賓館赤坂離宮(片山東熊)、日本橋や横浜赤レンガ倉庫(妻木頼黄)がある。いわゆる「お雇い外国人」として来日したコンドルの契約年数は5年間であったが、来日前から日本文化に興味があったコンドルは日本の女性と結婚し、日本画も学んだ。コンドルの持つ重要な側面として忘れてはならないのが、日本文化を世界へ向けて発信したという点。当時ヨーロッパには文化的刺激として東洋趣味があった。前途ある青年であったコンドルが日本に来たのも東洋趣味としての好奇心が影響していたに違いないであろう。これを裏付けするかのようにコンドルは河鍋暁斎という絵師の門下に入り「暁英」の号を与えられてもいる。暁斎の死後、師の仕事をまとめた本「Painting and Studies by Kawanabe Kyosai」を出版、暁斎の名を世界に広めた。人々から親しみを込めて「コンドル先生」と呼ばれた彼の銅像は工学部1号館前の広場に立っている。関東大震災以前の本郷キャンパスを計画したのもコンドルであった。オープンスペースとルネッサンス建築によるキャンパスを統合することを基本方針としたコンドルが、震災後の佐野利器、内田祥三のゴシック、現在の安藤忠雄のコンクリート造ガラス建築の本郷キャンパスを見たらどんなコメントをするであろうか。東京大学の本校は文京区本郷地区の「本郷・弥生・浅野キャンパス」がある。その中でも本郷キャンパスには歴史のある建物が多く、東京都の登録有形文化財第1号である安田講堂をはじめ、正門(横にある門衛所も含む)、法文1号館、法文2号館、法学部3号館、工学部列品館、工学部1号館が登録有形文化財に登録されている。これらの建物のうち、正門以外は内田祥三の設計による建築である。これらは共通する特徴をもったゴシック様式の建物であるため、設計者の名前を取って内田ゴシックと呼ばれている。代表作は東京大学本郷地区キャンパスの東京大学大講堂(安田講堂)である。(震災前に着工し、1925年竣工。弟子岸田日出刀との共同設計)内田ゴシックは他にも医学部2号館(本館)など同キャンパス内に数多く存在する。建物入口のアーチ、スクラッチタイルの壁面、尖塔型の柱など「内田ゴシック」と呼ばれる特徴を持つ建築群がキャンパスの統一感を形成している。東京帝国大学建築学科で構造計算法と鉄骨および鉄筋コンクリートの講義を担当。佐野利器の建築構造学を引き継ぐ形で発展させ、建築構造、防災、都市計画、文化財修復など数多くの分野に業績を残すとともに、東京帝国大学営繕部長も兼務し、多くの後進を育てた。関東大震災(1923年)後の東京帝大構内の復旧を主導。正門から続く銀杏並木などキャンパスに明快な軸線を導入し、「内田ゴシック」といわれるデザインパターンの建物を数多く建設した。1943年に東京帝国大学総長に就任。平賀の死後、興亜工業大学(千葉工業大学)顧問を引継ぎ同大の運営に尽力。敗戦前は、帝都防衛司令部として東京帝大を使用したいという軍部の強硬な申し出を断固として断り、終戦直後のアメリカ軍GHQ連合国軍総司令部による東大の接収要求を各方面に働きかけて止めさせている。画像にある剣道場ですが昭和初期のまま。鉄筋コンクリート造、道場の床はスプリング式で当時は画期的とい、和風建築だがやはり内田の設計となる。その他の画像は、建築意外だが漱石所縁の三四郎池などなど東京大学は見どころがいっぱいある所だ。内田ゴシックの代表作「安田講堂」から工学部、農学部へ。東大農学部を出た後、根津神社~湯島天神まで。その歩程途中の横山大観邸の画像も、建築視察ではないですが史跡探訪としてご覧ください。わたしの中学生時代過ごした文京区には5つの丘があり、昇ったら下りのある町で、これが結構きつい。まずは根津神社から。今回の建築視察は「無縁坂」⇒「東京大学」⇒「根津神社」⇒「旧横山大観邸」⇒「旧岩崎邸」「湯島天満宮」の行程であった。根津神社を出て、坂を下ると不忍通りに突き当たり不忍池が見えてくる。これを左折すると文京区千駄木、荒川区西日暮里方面へ、右に行くと文京区湯島や千代田区神田方面となる。江戸城から北東の上野、浅草は今は繁華街であるが当時は寺と墓の多い鬼門であった。今回は建築視察のレポートなので各神社仏閣の歴史文化は掲載しないが、江戸以降の明治時代の日本の文豪の多かった文京区は、旧帝国大学があったこともあるが(漱石や樋口一葉、啄木、鴎外、坪内逍遥の住居や跡地がある)今の台東区上野、浅草界隈との位置づけは少々違う。その「根津神社」の坂を下り、不忍通りを右に「湯島天満宮」に向かう途中にこの「旧横山大観邸」がある。時間制限もあり外観のみの撮影であるが、横山大観は日本画壇の巨匠。大観は明治42年から没90歳までここに居を構えた。昭和20年、空襲で焼失したため、建物の土台は生かされ、昭和29年に再建されたのが現在の記念館の姿となる。建物は、京風数寄屋造りで、台東区の史跡に指定されてる。客間、居間、アトリエはそのまま展示スペースとして公開され、構造や内装は、大観の日本画壇の巨匠ならではの工夫が凝らされている。 後半の小さめにした画像は2010年に下野市の環境市民グループ訪れた栃木県黒羽にある大雄寺。ここに横山大観の「枕返しの幽霊」掛け軸が保存されており、当日特別公開していただいた。この掛け軸は実物をあるテレビ番組で公開したところ「視聴者」からの電話が番組放映中に殺到。幽霊の目が動いたという電話でスタジオが騒然とした。当時まだ大学生であった私はその放送をリアルタイムで見ていたことを思い出す。(次回は、旧・岩崎邸のレポート)
                                  取材:HICPM住宅生産性研究会正会員  ㈱アップル 大竹 喜世彦


旧・岩崎邸を左に見ながら無縁坂を上りきった右手に東大「鉄門」がある



鉄門から入り医学部・東大病院を通り北のある「赤門」へ向かう





「赤門」は東大の正門ではなく「薬医門」

屋根串をよく見ると「天皇家」の下の位置に「前田家」の紋章が配されている



本郷キャンパスの計画はジョサイアアコンドルが、建築は内田祥三によるゴシック様式

内田ゴシックに対峙するようにコンクリート・硝子建築の安藤忠雄設計の校舎が建てられた



内田ゴシック















文学部に到着 ここの掲示板が「東大合格者」の発表場所として有名







文学部の内田ゴシック

しかし、文学部の「新・図書館」の建築はゼネコン(清水建設)による鉄骨コンクリート構造に置き換えられる



安田講堂





理学部は安田講堂に南側にある

夏目漱石「三四郎池」

競技場の下(地下)は東大の施設が入っている

和風の剣道場も内田祥三の設計によるもの




                           
安田講堂の地下は大学生協と食堂が入っている

安田講堂と工学部(安田講堂の東側)



工学部校舎はゴシック建築を残しロボットのような「耐震補強」が施された

「工学部」のある本郷キャンパスから高架橋を渡り東側にある浅野キャンパスに「農学部」がある







東大農学部の東側にある権現坂を下りると「根津神社」に出る






                          
「根津神社」を出て坂道をさがると台東区・池之端に出る 池之端を文京区・天神下方面に向かう途中に「旧・横山大観邸」がある



                                     次回は、「旧・岩崎邸」のレポートを掲載
                                 
                           取材:JMRA日本民家再生協会正会員  ㈱アップル 大竹 喜世彦

    弊社の古民家再生事例―

【築80年の古民家改修:飯能市下名栗】
         【Before】



 

 

 

 

 

     【Ater】屋根・外壁・窓の断熱改修
 

 

 

 

 

  
                                【Ater】キッチンの自然素材&断熱改修
                        
 

 

              

              

              

 

 
              

 

                          

                                 取材:JMRA日本民家再生協会正会員  ㈱アップル 大竹 清彦


          【エコロジーの先端、捨てない文化を取り戻す・ビンテージリフォーム】
建築基準法で規定されている現在の【在来工法】は柱や桁梁の接合部に金具補強して、面材や筋交いなどの耐力壁で地震等に抵抗します。これに対し古民家などの【伝統的工法】では、柱や桁梁の接合部は木組みのみで金具の補強はありません。代わりに【伝統的工法】では土塗り壁、竹小舞、差し鴨居、貫などが主要な耐力要素となります。【伝統工法】では土台を使わず1階の柱を直接礎石に立てる【石場建て仕様】が用いられることがあります。特に西日本以西では夏場の床下通気やシロアリ対策から【石場建て仕様】が採用された民家が少なくありません。 【限界耐力計算】という方法で確認申請の適合判定が通れば、こうした【伝統木造軸組み住宅】も新築できる。しかし、この申請・審査には大変な手間がかかり、その結果、現在新築の実績は年間数棟にすぎないのが実情です。 わたしたちは、この【伝統的工法】で使わてきた柱や梁といった構造材の再構築としてリユースする道筋をつけ、消えゆく貴重な資源をリモデリングというで使い継いでまいります。 古いという理由だけで何もせずただ壊して捨てたらゴミになるだけ。しかし、リモデリングで再使用したらあと何年再活用できるでしょうか。 ビンテージ・リフォームは【伝統的工法で使われてきた古材】を大切に、そのままの形で出来るだけ長く使い、捨てない文化を取り戻す究極のエコロジカルなコンセプト・リフォームです。

                           【古材を活用した弊社アップルのリモデリング例】

  ―栃木・旧藤岡町/F邸・230年前の土蔵解体(2011年) ⇒下野市/H邸・古材梁を再活用したマンション・リモデルへ(2012年)
 
―マンションのキッチン・リモデリング―
 16年のマンションの全面改修の一部

薄暗く、開放感のない元の対面型キッチンをリ・モデリング
キッチン台は造作中心のオリジナル
床暖房+LDKは明るく開放的なキッチンに家族が集うようになりました

【Before】
 

 

【施工中】

キッチン台を組み、古材も取付け、LD側のカウンターもインストールして周辺を造作
 
仕上げ:弊社インテリアコーディネーターが詳細を現場で指示
 

 
古材に合わせて周りの造作家具なども自然塗料リボス+京都山中油店の鉱物顔料で着色
 
左官:カウンター天板、袖壁
 

 
天板の左官:クリスタルインレイ使用、蜜蝋で撥水加工 
 
袖壁の左官:スイス漆喰、カルクウォール、エイジング加工
 

【After】






























  ―福島・田島町/I邸・古民家解体(2004年) ⇒下野市/T邸・古材梁を再活用したリモデルへ(2009年)

    

    

    

   

  

  

【古材を活用したリモデリング例】

   ―栃木・藤岡町/A邸・古民家解体(2007年) ⇒小山市/S邸・古材梁を再活用したリモデルへ(2008年)
静かな農村地帯に昔懐かしい風情を残す「青木邸」は江戸時代には、この土地で栄えていた大規模な農家。現在、旧道沿いに立つこの家の母屋は約100年前のもの。昔は街道の両脇に茅葺屋根の家々が立ち並ぶ日本の原風景を残す土地でもあった。最近はテレビの番組でも多く登場するようになった古民家とはいえ、子供の頃には「暗くて寒くて怖い」場所と思い育ったそうです。お母さんとの2世帯住宅を建てる決意をされたものの、祖先が使い残してくれたこの母屋をただ解体することに寂しさを感じていらした青木さんご夫婦。「まだ、使えるものなら是非、再生に活用て使い続けて下さい」と。まさに「200年住宅」の真髄ではないでしょうか?昔から、捨てずに大切に使い続けてきた構造材。本来、日本では当たり前に行われてきた建築文化です。もちろん、何もせず、200年耐用できるものなど何処にもありません。定期的に修理修繕し、次代を越え愛着を持ちながらメンテナンスし熟成されてきたのです。大切に使い住み続ける社会の実現。これこそがわたしたちの目指す「200年住宅」の意味するところではないでしょうか?青木さん、わたしたちアップルで古材として立派にリモデリングで大切に活用させていただきます。
                          Before(青木邸
     

   
 当時の貫工法(在来工法の原型)や竹小舞の土壁。地場の欅と松の曲がり梁が素晴らしい。
  
                  After(再生リモデル完成しました

     
 
増改築前(外観)              (和室)                    (廊下)         改装中古材をクレーンで搬入
        
    
       改装中:青木さんの地松の古材梁を2本活用、ドイツ・リボス自然素材塗料で綺麗に蘇る。 
  改築後(廊下)杉の古材柱を廊下でも活用、手洗いをしつらえ、トイレも増設。内装はスイス本漆喰左官&ドイツ・ウッドチップクロス張り
 
    
  改築後(寝室)
   
  改築後(和室:1) 内装:ドイツ・ウッドチップクロス                (和室:2)内装:愛知・桃山土壁(弁柄壁)  
    

【その他、古材を活用したリモデリング例】 Before⇒After
                    
                   よくある普通の和室             「古材の柱」で作った「自在ガキ」をぶら下げ、囲炉裏風の設えに。
                                             「古材梁」を4本使っています。

古民家を見て、その素晴らしさに感動する人は多い。その佇まいはわたしたちの五感に訴えるものは非常に多いが、本当の素晴らしさと意味するところは、自然のシステムが無駄なく利用されている先人たちの知恵に気づく点です。民家に蓄積された仕掛け、例えば風を防ぐ工夫、逆に風を導く工夫、高湿から室内を守る工夫、暗さを補う天窓の工夫といった仕掛けは、わたしたちのスローライフな暮らし方を見直すことを教えてくれます。これは過去への回帰を意味するのでなく、未来の住宅のために、伝統技術を見直し、継承し、新しい知恵を加えるということにつながって行きます。 民家の様々な歴史、文化的な背景を知ることは、ものの真の価値を知ることも出来ます。 裏付けのある知識を持つことで「先人たちの知恵」のルーツを知ることが出来ます。 例えば、家族団らんの食事は囲炉裏を囲んで・・・と思われていますが実は、『囲炉裏』は養蚕のための暖房であり、生活に余裕はなく、封建的なスタイルで食事は各自お膳で取っていた・・・。 しかし、現在はそのような封建的な風習はありませんから、『囲炉裏』は家族で仲良くみんで囲めばいい。 このように、民家を知ることは、わたしたちの先人たちの、地域にあった住まい方を正しく知り、その知恵を活用し、さらに長い年月をかけ熟成させていくものではないでしょうか。
江戸時代から、木材を再利用するのは当り前の時代でした。これがいつしか捨てる文化に変わってしまった。究極のエコロジーは、そのままの形で出来るだけ長く使うこと。ビンテージリフォームは、そんな私達の考えが詰まったコンセプト・リフォームです!リフォームアップルで強力に推進中!
古材を多用するビンテージリフォームは、高い志と古来の伝統工法の豊富な見識を習得した古材施工技術士に是非一度ご相談下さい。
                             日本民家再生リサイクル協会正会員 ㈱アップル・リフォームアップル自治医大店 大竹喜世彦 
 

  


【茅葺屋根の古民家】
八郷町には60余棟の『茅葺の里』があります。毎年年末に、八郷町の地元の【茅葺屋根保存会】の方々と、とわたしたち【民家再生リサイクル協会】茅刈り隊】、筑波大学生らのボランティアを含むメンバー(200名近く)は【つくば学園都市】にある高分子研究センターでヨシ刈りを行なっています。八郷の茅葺屋根の葺替えに使うための【ヨシ刈り】です。
そして、毎年この4月初旬に、民家再生リサイクル協会では、八郷町、地元【茅葺屋根保存会】の方々と、茅葺古民家で交流会を行い、早春の一日を美しい里山と日本の原風景が残る茅葺集落で過ごしております。戦後のヨーロッパでも、日本と同じように茅葺屋根は激減しましたが、現在は高級住宅地などのステータスシンボルとして使われ人気が高いそうです。・・・
さて、日本の茅葺について。かつての日本の茅葺文化は農村生活と深く結びつき社会活動とのかかわりが欠かせませんでした。筑波一帯は、江戸城の鬼門を守る門前町として栄え、特に筑波山麓では江戸末期からは専門職として【茅葺職人】が成り立ち、地方ごとに特異な形の技術が発達しながら、地域社会と強い関わりを持ってきました。村人は【ユイ・結】を組織し、茅葺を手伝い、古くなった屋根の改修で出た【古茅】は大切にリサイクルしまた、重要な肥料として農地にも還元され、その【マテリアル】自体も自己完結型で地域循環していました。
古民家再生の環境的側面】
日本の産業廃棄物のうち約20%を建設廃棄物が占め、民生部門のエネルギーのうち約45%を住宅が占めると言われる。社会全体の環境負荷の低減を図るには、この住宅建築をいかに環境配慮型に変えていくかが重要な課題です。住宅建材のリサイクル率向上や生活エネルギー使用量減少はどうすれば可能なのか?わたしたちは伝統的な素材、工法に、関わる最先端の知識に触れ、エコロジカルな視点からも民家再生に注力しています。
毎年建っている戸建住宅は約数十万戸で、最新の技術、性能を持ちます。しかし、立て替えればで、産業廃棄物と大量のゴミを発生させます。そして、もうすでに建ってしまっている既存住宅1500万戸はどうすればいいのでしょうか?わたしたちはリモデル、リフォーム(欧米ではリフォームというと歯の矯正の意味も含まれ、一般的にはリモデリング、ホームインプルーブメントと言われています。)を通じて、ゴミ問題も含むエネルギーなどの環境負荷低減をはかってまいります。とりわけ大きな機械装置(製造エネルギーが多大で廃棄時にリサイクルできないものを主に言います)の導入でアクティブな「省エネ」を図る方法よりも、より自然エネルギーをそのままの形で活用するパッシブな「省エネ」デザイン、設計を心がけていこうと考えます。
『ふるさと』というところは、我慢や不自由の多いところですが、その中で人は一生懸命に美的な誇りを探し美しく幸福に生きようとしています。その力こそ今の時代に必要だと『八郷』は、私達に教えようとしています。『町守り』は『町興し』に名を借りた開発行為とは異質のものでしょう。
『町守り』とは文化をその地で、地道に頑なに守り続けること。そこでは、簡単には壊さず大切に長く使う知恵が凝縮されています。作っては壊す、日本の現状の見直しは急務でしょう。
                           
                             NPO日本民家再生リサイクル協会正会員(株)アップル 大竹喜世彦

 ===大切なものを壊さず、使い継ぎ再生させる。福島県会津から古材を入荷しました。===

                      【古材でリモデルしませんか?】 
ビンテージ・リフォームは、そのままの形を出来るだけ長く使い、捨てない文化を取り戻し、究極のエコロジカルの先端をいくコンセプト・リフォー


      
本格的に古民家をほどき、移築するのではなく、もっとライトな感覚で古材を生活の中で活用してみましょう。 たとえば、和室に『囲炉裏』 や庭に『茶室』・古民家風のわたしの 『アトリエ」』などはいかがでしょう。二階の『使わなくなった部屋』を古民家風に設えてもいいでしょう。厳格なエコロジストではなく、もっと気楽にライトに生活を楽しむチルチン人やロハスな人々。…そんなライフスタイルの方々が急増しています。
㈱アップルではそんなロハスな方々を応援中です。
    リフォームアップル自治医大店 大竹喜世彦

民家再生トップへ戻る